「なぜ俺が……?」
「なぜムラに根回しをしないのか……?」
「そんなに使えないのか……?」
「まだ鉄道をやっていける……」
「愛する地域のために、鉄道を続けたい」
「自治体は、最後の試練に立ち向かった。その意外な結末とは……?」
鉄道を続けたい 諦めきれない 瀬戸際に立たされた地方自治体の壮絶なドラマ。
裏番組で放送されている、元・プロ野球選手の戦力外通告→トライアウトまでの結果をまとめたドキュメンタリー番組。ココではそのスピンオフ番組「俺たちはプロ野球選手だった」も含めた「国鉄戦力外通告を受けた路線のその後」を追っかけてみる。
- 国鉄戦力外通告の定義
- 戦力外通告を受けた路線が豊富に眠る「筑豊」
- 俺たちは「国鉄」だった(福岡県内で、実際に訪問したことがある所のみ)
- 危うい「戦力外候補」
- バース・デイ ~昭和末期生まれのおっさんが見た感想~
- 歴史は繰り返すのか?
国鉄戦力外通告の定義
便宜的に戦力外通告と言っているだけであり、正確に言えば「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)に規定する地方交通線のうち、バス転換が適当とされた旅客輸送密度4,000人未満の国鉄路線のことを指す。JRグループ誕生前に、段階的に当時の政府主導で実施された廃止・代替交通への転換が相応しい路線を選別。ザックリとみると、
と、この順番で実施されたことになる。但し、当時は並行する道路整備に不完全な場所があったり、積雪対策などを理由に鉄道の方が効率的な輸送を実施できるなどの理由で、廃止を免れた路線も少なからず存在する。とは言え、自分たちのムラのシンボルであった国鉄が廃止されることに憤りを覚える自治体ばかりで、廃止を免れるためにあの手この手で妨害工作を行ったのも事実。そうした葛藤と戦いながらも、結局は「自治体が鉄道を運行する」「バス路線に転換」「廃止を受け入れて自然に帰す」のどれかで戦力外(≒廃止)を受け入れた。
但し、廃止後も地元に根回しをするような制度にはなっており、例えばバス・第3セクター方式に変わった後も、数年間は国からの補助を受けられたり、自治体が廃止を受け入れるように見せかけて、転換後の協議を全く行わない姿勢が認められたら遠慮無く戦力外通告を発動するなど、当時の政府も計画倒れに終わった「赤字83線」の反省を活かして「アメとムチ」で対応していた。
戦力外通告を受けた路線が豊富に眠る「筑豊」
石炭産業で発展した福岡県筑豊地方は、エネルギー革命で炭鉱の役目を終えた後は、国鉄にとってお荷物だらけとなった。収益改善も全く期待できないことから、ごく一部を除き、殆どが1987年のJR九州発足前までに戦力外を受け、JR九州になった後も1988年頃までに戦力外となってバス転換・道路整備への転換を余儀なくされている。
早々と戦力外通告を受けた国鉄路線の殆どは、自動車交通に転換すべく、道路整備に切り替わっている。自然に帰した結果、当時の国鉄の遺産がごく僅かに残る場所もチラホラとは確認できるが、国鉄分割民営化から30年以上が経過した現在では、当時の面影はほぼないと考えた方が良いだろう。
俺たちは「国鉄」だった(福岡県内で、実際に訪問したことがある所のみ)
添田線(第1次戦力外通告)
炭鉱産業が終わった1970年代以降は、末期まで極端に本数が少なく、日本一の大赤字路線として悪名高い路線だった。なので早々と戦力外通告。現在は道路になっているが、上伊田駅付近からの分岐付近には、当時の遺産がごく僅かに残っている。
並行して日田彦山線があるものの、こちらも今後10~20年の間に戦力外通告を受けかねない程に輸送密度が減少しつつある。
甘木線(第1次戦力外通告)
JR基山駅から分岐し、小郡市・筑前町を経て朝倉市の甘木駅に至る盲腸線で、1919年に開設された陸軍・太刀洗飛行場への輸送を強化するため、以前から地元自治体による鉄道誘致も兼ねて1939年に開業した路線。
戦後、太刀洗飛行場が廃止されると、その地にキリンビール福岡工場が開業し、専用線を設けるなど、産業路線としても活躍した。しかし、自動車運送が主流になると甘木線の需要は低下。
1981年に第1次戦力外通告を受けたが、地元自治体が関与する形で第3セクター方式の鉄道会社へ転換する道を選択。1986年4月1日、当時の国鉄から現在の甘木鉄道へ転換。国鉄末期では1日数本しかなかったダイヤも、現在は最低1時間に1本の割合で運行するなど、福岡都市圏へのアクセスがやや不十分な朝倉市において、その代替交通を確保させている。
気動車ではなく「レールバス」という言い方をするあたり、ある種のコミュニティーバスとしての運用といった解釈も出来る。
矢部線(第1次戦力外通告)
JR羽犬塚駅から現在の八女市黒木町に位置する黒木駅に至る盲腸線。「矢部線」と言っておきながら、本来の終点予定地であった旧・矢部村への到達は出来なかった。計画では現在の国道442号に並行して、大分県日田市中津江村を経由し、熊本県小国町に位置する国鉄宮原線・肥後小国駅に到達するという、今では無謀としか言いようのない計画だった。
森林が豊富な筑後南部の木材を運搬するのが主な理由だが、時代についていくことが出来ず、人口減少も重なって、早々と戦力外通告を受けている。現在は地元の堀川バスが代替運転をしている。
香月線(第1次戦力外通告)
筑豊本線・中間駅から分岐し、八幡西区香月地区にある香月駅まで結んでいた盲腸線。石炭の輸送が主たる理由で、エネルギー革命後は貨物も廃止される形で利用者が激減。1981年に戦力外通告を言い渡され、1985年に廃止。
漆生線(第2次戦力外通告)
現在のJR後藤寺線・下鴨生駅と、当時の国鉄上山田線・下山田駅とを結ぶショートカット路線。鴨生駅の前後で建設の経緯が異なるモノの、総じて言えば石炭輸送が主たる理由。やはりコレもエネルギー革命後は役立たずとなり、第2次戦力外通告を受けて廃止。その線路沿いを西鉄バスが走っているモノの、本数は国鉄時代とほぼ同水準であり、末端部の才田~嘉穂信号所付近に線路跡が残る以外、道路整備に転換されている。
上山田線(第2次戦力外通告)
現在のJR飯塚駅を起点に、旧・山田市(現在の嘉麻市山田地区)を経由して、JR豊前川崎駅に至る路線。石炭産業が現在もフィーバーしていたら、豊前川崎から更に進んで柚須原→苅田港付近まで延長させようとした九州横断鉄道もどき。やはりエネルギー革命には歯が立たなかったため、第2次戦力外通告を受けて廃止。但し、こちらは漆生線と異なり、代替交通手段の確保を理由に、約1年間はJR九州が一時的に担当していた。
佐賀線(第2次戦力外通告)
鹿児島本線・瀬高駅と長崎本線・佐賀駅とを結ぶショートカット路線。1940年5月に筑後川に架かる「筑後川昇開橋」を含めた全線が開業し、計画では現在の国道443号に相当する熊本市菊池市・大津町へ到達させるという、九州横断鉄道もどきの路線。
目玉は何と言っても筑後川昇開橋であり、筑後川を行き来する船舶が国鉄の橋梁と干渉することから、船と有明海の干潮差のタイミングを見計らって、橋げたがアップダウンするというのが印象的だった。だが、時代の変化で、隣に国道208号大川橋・諸富橋が開業すると、事態は一変。「特定の時間だけしか橋げたを動かせない」という難点や、自動車交通の方が圧倒的に移動に有利、佐賀駅を含めた佐賀・筑後地区の輸送には限界があることなどを理由に乗客は減少していき、1984年に戦力外通告。
沿線には大川市の家具産業や味の素の工場があるなど、そこで作られたされた製品を貨物車で行き来することもあった。
廃線後は佐賀県側がサイクリングロード、福岡県側が一般道+有明海沿岸道路の一部に転換されるなどされ、当時の面影は地元自治体が文化遺産として残している筑後川昇開橋が残る程度にしかない。
伊田線(第3次戦力外通告)
JR直方駅とJR田川伊田駅との間を結ぶ路線。筑豊東部の田川市と直方市を最短で結ぶ元・幹線であり、やはりココも石炭輸送を理由とした路線。ただ、ココは旅客輸送も比較的多かった場所なのか、第3セクター路線としては珍しい「複線」で整備されている。輸送密度が4,000人に満たないという理由で戦力外通告を受けたが、ココは早い段階で福岡県が主体となって第3セクター方式の鉄道会社を作り、JR後も引き続き鉄道で対応していく方針を固めていたため、一時的にJR九州が担当した後は平成筑豊鉄道にバトンタッチ。
他の平成筑豊鉄道と同様、概ね1時間に1~2本の割合で運行している。まだまだ鉄道人生は続きそうである。
田川線(第3次戦力外通告)
JR田川伊田駅~JR行橋駅の間を結ぶ路線で、石炭輸送を理由に作られた路線。先ほど説明した上山田線(柚須原線)の無茶な延伸予定地である柚須原駅も、この路線の道中にある。ココも輸送密度が4,000人を下回る、厳しすぎる条件に耐えきれずに戦力外通告を受けるも、福岡県が第3セクター方式の鉄道で継続する方針を固めていたため、1989年に平成筑豊鉄道にバトンタッチしている。
通学客の利用が多いものの、日曜日の利用地点でも1両体制で十分にやりくりできる程度の客層。現在はJR線で問題が起きた時の迂回路として使えるかどうか、ぐらいの旅客事業と考えた方が良いだろう。平筑の「ちくまるきっぷ」を購入すると、乗り放題+源じいの森の温泉を1回無料で入浴できる権利が与えられる。
糸田線(第3次戦力外通告)
平成筑豊鉄道の本社がある金田駅から分岐し、JR後藤寺駅に至る鉄道路線。後藤寺以南、いわば豊前川崎・添田で採掘された石炭を直方・若松方面へ運搬するために作られたショートカット路線であり(中間点である糸田以南はセメント輸送の経緯もあり)で、エネルギー革命後は役立たずになって戦力外通告。JR伊田とJR後藤寺は1駅しか離れていないのに、なぜかそこへは平筑は乗り入れしない。
危うい「戦力外候補」
言わずもがな、例の日田彦山線の一部区間は戦力外通告待ったなしの情勢(そもそも自治体の協力なしで復活できるという考え自体、甘すぎる)だが、決して日田彦山線以外も対岸の火事で済ませられる話ではない。福岡県を始め、日本全国でも人口減少社会・少子高齢化・他の公共交通機関との競争・自然災害への対応などで、減便・ダイヤ見直し・戦力外通告を受ける路線が出てくるのは避けられない。
自分が住んでる地域には、かつて国鉄矢部線があったものの、私が生まれてスグに戦力外通告を受けたらしく、別に鉄道なしで困ることは全くない。寧ろ、自動車交通が基本となった現代では鉄道輸送は非常に効率が悪く、存続していた場合は住民のお荷物みたいな形で、熱心な鉄道信仰主義者(コレには存続を熱心に説く自治体も含む)とは距離を置いてシラケていただろう。
戦力外通告を受けたプロ野球選手がトライアウトに受験しても、他球団から一切相手にされずに現役引退を余儀なくされる事例が圧倒的であるのと同様、十分に地域の足として支え続けた鉄道が、時代転換できずに地域の「貨物」になってしまっては元も子もない。いつまでも鉄道(電車・気動車問わない)ありきという考えで思考停止せず、時代に見合った形でセカンドライフとしての交通体制を築けるよう、他の交通モードへの転換を視野に考えなければならない。
そう思うと、ある意味プロ野球選手は潔い(そうでない人も結構いるけど)。悔いが残りすぎて、徹底的に拒否してムラの圧力でどうにかなると思ってる某・自治体を見てると、ホントにタチ悪いなぁとつくづく感じてしまうのです……。そんな横暴な姿勢でJR九州や福岡県・国交省などと交渉し、どっかの県議会のセンセイ方と一緒にドンチャン騒ぎ&署名活動をしている様子を見ていると、まあ、来年のダイヤ改正前までに戦力外通告を受けて断末魔を叫ぶ光景が、ますます現実的になりそうな予感がするのです。
バース・デイ ~昭和末期生まれのおっさんが見た感想~
地元の人たちを中心に「昔はココに国鉄が走っとったんちゃんねー」みたいに語られると、そうした歴史をよく知らない私にしたら「はぁ、そうなんですか」で終わる。歴史の伝達は極めて難しいものの、直接的に見れば国鉄の遺品があること、間接的にみれば当時の社会情勢や産業構造・財政状況・鉄道以外の社会資本整備の状況などが複雑に重なったが故の鉄道社会であったことは理解できる。なぜならば、当時の記憶を残そうと、媒体問わずに記録することが出来たからに他ならない。
しかしながら、国鉄時代を知らない私が「遠い過去の話」のように感じるのは、実際にその国鉄車両に乗ったことがないからに尽きる。国鉄時代は政治家の介入を思う存分味わって無理やり国鉄が誕生していたのに対し、JRに変わってからは利益追及と公共財のバランスを考えながら鉄道事業を行っていく方針に変わっている。山里の奥にぽつーんと国鉄の名残が残っていると「当時はココが産業の主戦場であり、同時にこうした山奥にひっそり住んでる住人に対しても、相当の政治力を働かせて誘致させたんだな」と、半分は誘致した側の言い分が分かりつつも、残る半分はついつい現代社会との比較をしてしまいがちである。
そうした複雑な状況のもとで国鉄路線を網の目のように整備することが、果たして経済発展、ゆくゆくは全体の国益となって生活向上に役立つモノなのかと考えさせられる。
歴史は繰り返すのか?
国鉄戦力外路線の多くは「産業路線としての役目を終えたもの」として認識されており、特に廃線が目立つ筑豊地域の場合は、炭鉱産業から石油産業への切り替わりが出来ずにそのまま終焉の道を辿った。明確な理由があって建設された路線もある一方で、いわゆる「我田引水」のようなノリで建設した場所も、残念ながらたくさんある。
私が一度は訪問してみたいなと思う国鉄戦力外路線の一つに、いわゆる豊前川崎駅~油須原駅までをショートカットで結ぶ計画だった「油須原線」がある。この路線に関しては、当初は石炭産業の強化を図る目的でショートカット路線を建設するのが主たる理由だったが、需要低下で必要ないと判断。しかし、「俺はまだやれる!」という当時の自治体の思惑で強引に突き進もうとするも、結局はムリという理由で建設を断念し、一度も1軍マウンドに上がることなく戦力外通告を受けている。現在は分岐点となる赤村側が不定期でトロッコ列車を運行し、当時の想いを伝えているそうだ。
絶対に必要と叫ぶ地域ほど、実は自治体の視点のみで語られた主観であり、客観的にみて日本全体の経済発展に繋がる路線であったのかどうかで考えると、我田引水的に建設された路線の多くが「ココに鉄道があると便利なのに」という単純な想いから来ている。もちろん、その考え自体は実に結構な話だし、利便性向上に繋がって地域産業の発展に繋がるのであれば、実にハッピーハッピーな展開になるだろう。
しかし、鉄道路線(さらには高速道路網)が整備されればされるほど、より一層の大都会一極化が進む(最初は日帰り旅行で福岡・北九州へ向かい、それが面倒になってくるとそこに移転し、村の人口が減っていくストロー効果)という現実が待っている。プロ野球選手同様、現実はそんな単純な話ではない。
現代社会において、戦力外通告を受けた路線の当時の遺品を見ていく上で、過去と現代、そして未来を考える上で、失敗を繰り返さないようにするための先人たちのヒントが隠されているのではないかと考える。利便性を選ぶ反面、その代償で衰退化という選択肢を受け入れるのか、はたまた部分改良程度で我慢し、出来るだけ既存の公共交通機関を積極的に利用する手段を受け入れるか。そして、時代が変化し続けても、その地域で生き残っていくための愛郷心があるかどうか。そうした風に違う視野で物事を考えると、公共財に対する捉え方も随分と変わってくるはずである。
難しく考える必要はないが、せめて国鉄戦力外路線から学び続ける社会が今後も続いて欲しいと願う。
誰にでも交通モード転換の岐路は、必ず来る。新たな地域社会に立ち向かい、第2の人生を歩み始める沿線自治体・支えてくれる地域住民・多くの旅行客に、心からのエールを贈りたい。